動機が肝心

動機が肝心

すべての物事は、動機によって位置づけされます。
それは例え人殺しであってもです。

戦時中のように、お国のために人を殺し生き伸びてきた人々の人殺しの動機はお国のためです。
しかし、恋人を奪われた嫉妬から奪った人間を殺したら、自分のために、恋人を取り戻すために殺したことに成ります。

お国のための人殺しは、自分と言うものがありません。それがたとえ軍の命令であっても、わが身を省みず勇気を持った軍人として褒め称えられることでしょう。

確かに人殺しは大きな罪です。
しかし、人殺しにも色々な動機があるのです。
娘を助けるために、娘を悪の道に連れ込もうとしている人を殺すことだってあります。
また、自分は引くつもりなどまったくないのに、車の目の前に人が現れて、ブレーキが間に合わず引いてしまった場合もあります。
同じ自動車事故でも、自分の不注意で、携帯で電話を掛けていて引いてしまうことだってあるのです。

結果として、同じ人殺しと言ってもこんなにたくさんの状況や動機があるのです。

これは人殺しを例に挙げてお話しましたが、愛の行為であっても同じです。自分のためにする行為は慈善行為であっても余りよろしくないでしょう。しかし、そこに自分と言うものがなく、人のために何かを尽くすときは、とても素晴らしい愛の行為に成ります。

何が言いたいのかと申しますと、結果として捉えればまったく同じであっても、それを行う動機によってこんなにも罪や愛の大きさが違うと言うことです。

愛を実践するときも、そこに自分と言う存在があれば、それは慈善行為に見える自分の自尊心を満たす行為になってしまうということです。
何かをするとき、先ず動機を考えてみて下さい。結果は同じかもしれません。しかし、その行為が本当に愛する心から出ているかどうかを考えてみて下さい。

いくら嘘をついても、すべてバレているのです。だって自分にその行為が返ってくるのですから、自分自身をいくら騙そうとしても無駄なのです。
神様(自分自身の心の奥底の内在神)は、すべてをお見通しなのです。
どんなに巧妙な嘘もバレてしまいます。
ですから動機が肝心なのです。

原因と結果の法則は、動機によって大きく左右されるのです。結果じゃありません。例え結果が思わしくなくても、そこに愛の心があれば、それは失敗ではないのです。愛の行為をしたと言う実績が残るのです。

しかし愛の心がなくてそれなりの結果が出ても、それはただの結果でしかなく、あなたの行為はそれなりの評価しか現れません。また逆にそこに自分の利益なりエゴがあれば、それは罪を犯したことにもなるのです。教祖が愛を説いてお金を儲けるようなものです。

真理を知れば、知識が手に入れば、そこには大きな責任が伴います。ですから動機が肝心なのです。
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